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「わたしを離さないで」はなぜ傑作なのか?





カズオ・イシグロの原作を映画化した作品だ。
内容的にはイシグロ作品の中では異色のSFの設定。したがってコアなSF文学ファンや科学を専門とする人(筆者もその一人だが)にとってはプロット・ホールがある。


しかし、そんなことは気にさせないほど、描いたテーマがすばらしいと感じた。
近年のSF文学の多くは(もちろん例外はあるが)高いエンターテイメント性に裏打ちされていることが多いように感じられる。それはそれでいいが、SFの持つ「文学」としての可能性は、ときに純文学など異分野のジャンルの作家によって生かされることもときにある。

本作品の原作もそうであり、日本では大江健三郎の「治療塔」などが挙げられるだろう。





イシグロはこの映画版に製作総指揮として参加している。筆者は原作を読んだうえで映画版を鑑賞したが、重要なプロットをうまくまとめて約110分以内にまとめられている。なにより文学とは違った生身の俳優たちによる表現がすばらしかった。

ちなみに原作は英文で読んだほうが絶対にいい。カズオ・イシグロは日本生まれであるものの英国育ちの作家であり、その文学は「伝統的な英国文学」であると本国で高く評価されている。事実、この作品の原作の英語もすばらしく、英語で読むからこそ味わえる、ときにもの悲しい、情感に訴える読書を楽しむことが出来る。




(こちら英語版)

その設定に関しては非常に現実味がない、おとぎ話のような部分もある。

しかし、その「非現実性」の中で訴えようとしているものが強いからこそ、その「強引」で「無理」な設定に鑑賞者は引きこまれてしまう。

岩井俊二監督をして本作品を「去年僕が観た映画で一番後遺症が残った作品。こんな話あるわけないだろうと思いながらも、いったんこのホラ話に乗ってしまうと息も出来ないような世界に連れてゆかれる。出口なし。けど彼らの感受性はあまりにもリアルでピュアなのだ」と言わしめたことが理解できる。


(岩井作品ではこちらがオススメ)


本作品は、賛否両論のようだ。人によっては嫌悪感を持って(その非現実的設定も含めて)評価される場合もあるようだ。また高く評価した人も作品の持つ力強いテーマを「静かな、それでいて恐怖感をあおる」ホラー作品と感じる人もいるようだ。

確かに本作品には「非常に恐ろしい世界」が描かれ、その一方でその現実と運命に主人公たちが葛藤しながらも「淡々と従う」ことの恐怖を「ホラー的」と評することも理解できる。

そういった視点で鑑賞することもこの作品のひとつの観方かもしれない。



以下、ネタバレを含むが・・・。


本作員の主人公たちは臓器移植のためだけに作られたクローン人間になる。彼らは一定の年齢になればドナーとして人類のために臓器を提供し、通常3回の提供によって「終了(英語表記ではcompletion)」される。

主人公たちは、この運命の中で葛藤するが、淡々とドナーとしての運命と役割をこなし、そして死んでいく。それは「死」としてすら表現されず「終了」と呼ばれる。

前述のこの作品を「究極のホラー」と表現した人たちは、この「明らかに狂気の設定」に対して主人公のクローンたちが淡々とその運命を受け入れる姿に底知れぬ恐怖を感じたからかもしれない。

同じクローン人間が生存をかけて葛藤する「ブレードランナー」とはテーマは似ている。しかし、本作品は静かにその恐怖を描いているぶんだけ「異常な」感覚を覚える。本作品を「ホラー」と感じた人たちはこの恐怖を感じたのだと思う。


(現在続編企画進行中の「ブレードランナー」)

また扱っている物語のパターンとしてはユアン・マクレガー主演の「アイランド」と同じだ(ちなみに「アイランド」は盗作騒動が後に起きている。これについてはいずれ取り上げる)。




しかし、私はこの作品にこれらの「恐怖」とは異なる視点が存在すると思う。

この作品を冷静に見た場合に主人公たちの行動に違和感を覚えることがある。「ドナーになるのが嫌なら逃げればいいじゃないか」と考えるのは普通のことだ。

もし、エンターテイメント映画であれば主人公の二人は逃避行をはじめ、その過程がドラマチックに描かれるだろう。ハリソン・フォード主演の「逃亡者」のように逃亡する男のスリリングな展開になることもできただろう。




ハッピーエンドでなくてもテリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」のラストのように少なくとも「逃亡し幸せをつかもうとする」姿が描かれることも可能だったろう。しかし、この映画の主人公たち運命に抵抗しない。淡々と自分の悲劇的な「臓器を他人のために搾取される」という運命を受け入れていく。




主人公たちにとって「反抗」とはあくまでも「与えられた環境の範囲の中でもがく」ことでしかない。

私がこの作品に心打たれるのは「臓器を提供する」ということが「搾取」を象徴していると感じるからだ。

日本のような年功序列社会では年長者は平然と若手の手柄を取っていく。

しかし搾取する側というのは得てして、搾取される側(すなわち被害者)に対して罪悪感は全く持っていない。むしろ年功序列において当然と考えている。そして、私の身の回りにもよくあることだが、搾取される(被害者)に罪悪感すら植え付けていることが多い。

たとえば会社などでもこういった情景は見られないだろうか。
若手が優れた業績を上げたときに、上司がその手柄を独り占めしておきながら「しかし、この業績もまだまだだ。私だったらもっとうまくやる。もっと頑張らないとだめだ」というように若手を諌めるパターンだ。

こんなとき、まじめな若手ほど「ああ、私はまだまだだ。上司に迷惑をかけた」などと考え、なおいっそう上司に「認められよう」と頑張ってしまう。なんてことない、上司は部下の若手を「鵜」のように酷使しているだけだ。

こういった若手は疲弊していくのが目に見えてわかる。ボロボロになっても頑張っている姿が痛々しい。

私が言いたいのは、この作品で描かれる主人公のクローンたちは映画の中においては「臓器を何度も提供する」ことによって「身体的」に弱っていくように描かれているが、実は現代社会においてこういった上司たちに搾取されている人々が「精神的に疲弊していく」姿を象徴しているにほかならないのだ。

映画の後半に出てくる打ち捨てられた漁船。これが彼らを象徴しているのだ。

この作品に魅力を感じる人は、かつて理不尽な状態で「搾取」された人なのかもしれない。

作品の中で、この主人公たちが学んだ学校「ヒルシャム校」は「クローンたちに魂があるか」を証明するための実験だったと明かされる。しかし、主人公たちの臓器をなんの疑問もなく受け取るレシピエントである「人間」に本当に「魂」はあるのか?

搾取する側というのは実は「魂」なんてないのではないだろうか?


今、職場や様々な状況で理不尽に搾取されている人もいるだろう。

この作品を見て、目を覚ましてほしい。そんな環境から脱出して自分の幸せをつかんでほしい。






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  • Date : 2015-07-18 (Sat)
  • Category : 映画
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